当サイトで紹介している商品やサービスは、自分で購入、または自主的に調査したものをアフィリエイトリンク付きで紹介しています。

函館亀田八幡宮の御朱印と、アクセスや駐車場について!

亀田八幡宮の拝殿 函館神社仏閣

亀田八幡宮は函館でも有名な神社で、普通の住宅街にあります。

もともと亀田市と函館市は分かれていたんですが、1973年に亀田市が函館市に編入されました。

なので、昔は亀田市は「亀田八幡宮」、函館市は「函館八幡宮」というイメージだったと思います。

また、亀田八幡宮は、箱館戦争の際に旧幕府軍が降伏の誓約を交わした場所で、歴史的にも重要な場所です。

そんな亀田八幡宮の御朱印や、アクセスの仕方、駐車場などについて詳しく紹介します。

スポンサーリンク

亀田八幡宮の御朱印

亀田八幡宮の御朱印
独特の「亀」の字と、亀の甲羅のような朱印が印象的な御朱印です。

ただ、「Omairi」などのサイトにアップされている御朱印を見てみると、私がいただいたときから変わっていると思われます。

書いて下さる方にもよると思いますが、「亀」の字が他の場合も見られます。

最近は朱印が亀の甲羅ではなく、四角い朱印になっているようです。

私の場合はすらりとスマートな感じですが、太くて力強い感じのものもあります。

また、コロナ禍の時は直書きは中止し、書き置きとなっていたようです。

初穂料はお気持ちでということでした。

亀田八幡宮へのアクセス

亀田八幡宮は普通の住宅街にあります。

市電が通っていないエリアなので、若干アクセスしづらい感じがします。

例えば、函館駅からだと徒歩30分くらい、五稜郭タワーからだと徒歩25分弱くらいです。

歩いて行けない距離ではないですが、基本的にはバスを利用することが多いと思います。

亀田八幡宮の最寄りのバス停は「宮前町(サツドラ前)」で、そこから徒歩5分ほどです。

函館駅からだと2番乗り場から出ている82系統のバスになります。

ただ、最寄りではないですが、「ガス会社前」や「亀田町」のバス停からでも徒歩6~7分くらいです。

なので、いずれかにとまるバスで時間が合うものに乗ると良いでしょう。

函館駅から82系統 乗車時間:約7分 料金:280円
住所:函館市八幡町3番2号
電話番号:0138-41-5467
例祭日:9月15日

亀田八幡宮の駐車場

亀田八幡宮には無料の駐車場があります。

地図で上から見ると、亀田八幡宮右側になります。

亀田八幡宮に隣接していて、かなり広い駐車場です。

舗装されているわけではなく、だたっぴろい広場のような感じです。

特に車を止める場所が決まっているわけではないと思いますが、車の数が少ない時は、だいたいみなさん神社の建物に近いほうで広場の端のほうにとめています。

亀田八幡宮の駐車場

平日だと、数台が広場(駐車場)の端のほうにとまっているくらいです。

ただ、初詣のときなどは混むので、ポールなどを置いて、ある程度秩序をもたせることはすると思います。

また、例大祭(9月15日やその前後)のときは駐車場の大半がお祭りで使用されるので、ごく一部しか駐車できなくなります。

なので駐車場の利用を考えている場合は、HPなどで何かイベントがないか情報を得ておいた方が良いでしょう。

特にイベントがないときであれば、駐車するのに困ることはほぼないと思います。

駐車場には八幡通りという通りから入るようになっていて、駐車場入り口の向かいには、ガソリンスタンド(コスモ石油)があります。

付近を見る限り、「亀田八幡宮駐車場」のような看板や案内はありませんでした。

ただ、何もない広場のようになっているので、迷うことはないと思います。

ちなみに広場(駐車場)の隣は、ちょっとした遊具などがある「八幡公園」という公園になっています。

亀田八幡宮の歴史

亀田八幡宮の歴史については諸説あるようですが、北海道神社庁のHPには以下のように書かれています。

明徳元年越前国敦賀郡気比神宮より、八幡大神の御分霊を同国笠原右源太が当地に奉遷。その後河野加賀守森幸が、右源太の孫左衛門をして本殿造営をしたが、松前藩祖信広との戦乱の為祭祀営繕不能となる。蝦夷地大乱の時、松前藩4代慶広が南部大澗より渡来の智楽院(藤山家の祖先)に七飯村藤山頂上で必勝祈願をさせ大勝し、その時アイヌ勢が七重浜の柏樹草木を軍勢と見て降参したのは八幡宮の加護と、藩祖信広の大弓半弓矢を奉納、正月6日の法楽神事を仰付け、七重浜の柏樹林の伐採を禁じ、松前藩の祈願所に定めた。慶長8年10月本殿拝殿を建立(現神輿殿・文久2年8月改築)。毎年祭祀料玄米25俵、各村の役納を仰付け大祭毎に代参。明治元年蝦夷統督清水谷侍従参拝。戊辰戦争では、幕軍榎本武揚・大鳥圭介等が当宮神殿で降伏を誓約。同2年8、12月侍従東久世通禧参拝。同9年郷社。同15年有栖川宮一品幟仁親王御真筆の奉納。同41年神饌幣帛料供進神社に指定。

北海道神社庁HPより

これだとよく分からないので、分かりやすく年表にしてみました。

ただ、1457年の行については、北海道神社庁の説明だと歴史的に合致しない部分があり、(例えば「松前藩4代慶広」は時代的に合わない)、その部分については、他のサイトも参考にしながら、おそらくこうであろうということで書いています。

また、私の解釈の間違いや知識不足により理解ができていない部分もあるかもしれませんので、そういう前提で読んでいただければと思います。

年代出来事
明徳元年
1390年
笠原右源太が、越前国敦賀郡(現在の福井県敦賀市曙町)にある気比神宮から、八幡大神の御分霊を当地に移(遷)したことが始まり。

その後河野加賀守森幸が、笠原右源太の孫の左衛門に本殿を建ててもらったが、松前藩の祖である武田信広との戦乱の為、神や祖先をまつることができなくなった。
蝦夷地大乱の時
1457年
コマシャインの戦い(※1)の時に、武田信広が南部大澗(おおま)から来た藤山家の祖先とされる智楽院に、七飯村藤山頂上で必勝祈願をさせたところ大勝。

その時アイヌ勢が七重浜の柏樹草木を軍勢と思って降参したという伝説がある。

そして、それは八幡宮のご加護であるとして、大弓半弓矢を奉納した。

1月6日に法楽神事を行うことを言いつけて、七重浜の柏樹林の伐採を禁止し、松前藩の祈願所に定めた。

※1 現在の函館市にあたる和人の鍛冶屋とアイヌの男性とのいざこざがきっかけで起こった戦い
慶長8年10月
1603年
本殿拝殿を建てる。現在の神輿殿は・1862年(文久2年)8月に改築されたもの。

毎年祭祀料として玄米25俵、各村の役納を仰付かって大祭毎に参詣した。
明治元年
1868年
蝦夷を統督していた清水谷侍従が参拝。
明治2年
1869年
旧幕府軍榎本武揚や大鳥圭介等が、新政府軍と当宮神殿で降伏の誓約を交わす。

8と12月には東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ(幕末の公卿)が参拝。
明治9年
1876年
郷社となる ※2

※2 社格制度という、国家が神社を待遇する上で設けたランク付けがあり、「郷社」とはその中の呼び名の一つ
明治15年
1882年
有栖川宮一品幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう(幕末・明治期の皇族)御真筆(間違いなく本人が書いたもの)の奉納。
明治41年
1908年
神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)定される ※3

※3 地方自治体から、神様に供える供物(神饌)と、神様に捧げるお金(幣帛)の供進を受けていた(神様に供えるために与えられていた)神社のこと

また、亀田八幡宮内に、函館市による説明が書かれているものがあります。

それについては、書かれている内容をそのまま紹介します。

社伝によれば、明徳元(1390)年、河野加賀守森幸が越前敦賀(福井県)の気比神宮から、祭神の八幡大神(応神天皇)を勧請したのが始まりという。本殿と拝殿は慶長8(1603)年に建立されたと伝えられている。17世紀に入って亀田川河口は、このあたり一帯の中心地となり、神社・仏閣が整備された。亀田八幡宮には、延宝2(1674)年の棟札が現存している。現在の社殿は昭和39(1964)年に造られたものである。それまであった社伝は現在でも神興殿として残されているが、文久3(1863)年に改築された市内で最も古い木造建築である。箱館戦争時に受けたという銃弾の跡が残っている。また、第一の鳥居は、弘化4(1847)年に松前藩最後の箱館奉行となった工藤茂五郎が奉納したものである。

「北海道神社庁」と「函館市」の説明では、共通する部分や、若干異なる部分があります。

ただトータルで見てみると、お互いの情報を補完し合いながら、より深く亀田八幡宮を知ることができます。

【御祭神】
誉田別命 (ほんだわけのみこと)

また、亀田八幡宮には、末社として「函館薬祖神社(はこだてやくそじんじゃ)」と「亀田稲荷神社(かめだいなりじんじゃ)」があります。

※神社境内の本殿以外の小さな社には「摂社と末社」があり、戦前は位の高い神社において摂社と末社を区分する基準がありました。ここでは詳細は書きませんが、摂社のほうが上位で摂社に該当するかどうかの基準があり、基準に当てはまらない場合は末社となります

【函館薬祖神社の御祭神】
少彦名神 (すくなひこなのかみ)

【亀田稲荷神社の御祭神】
宇迦之魂神 (うがのみたまのかみ)

スポンサーリンク

境内の様子

亀田八幡宮入口の鳥居
ここが亀田八幡宮の入り口。

周りが普通の住宅で、その中に鳥居があるので、「あれっ?こんなところに?」という感じです。

そしてここから拝殿までが、けっこう長い一本道のようになっていて、初詣のときなどは長い行列になります。

真っすぐ進んでくると両側に石灯籠があり、その先に橋があります。

亀田八幡宮参道にある橋

橋を渡ると、すぐ左手に手水舎があります。

亀田八幡宮の手水舎

そして2つめの鳥居があり、この辺りから厳かな雰囲気になってきます。

亀田八幡宮参道にある2つ目の鳥居

ここから途中にはいろいろありますが、まずは真っすぐ行くと突き当りに拝殿があります。

亀田八幡宮の拝殿

2つ目の鳥居から拝殿までの参道の途中には、左手に「函館薬祖神社」と「亀田稲荷神社」があります。

亀田八幡宮境内にある函館薬祖神社

亀田八幡宮境内にある亀田稲荷神社

また、右手には拝殿のような建物がありますが、それは旧拝殿で現在は神輿殿として残されています。

亀田八幡宮の旧拝殿

亀田八幡宮は箱館戦争の舞台となっていて、明治2年5月15日には戦場になりました。

そのため、旧拝殿をよく見てみると弾痕が残っているのが分かります。

亀田八幡宮旧拝殿に残っている弾痕

同年5月17日には旧幕府軍が降伏し、箱館戦争は終結しましたが、その協議の場となったのが亀田八幡宮です。

2012年(平成24年)には、刀の切先をイメージした「箱館戦争降伏式之地」と書かれた記念碑が建立されました。

※反射して分かりにくいですが、以下写真がその記念碑です

亀田八幡宮にある「箱館戦争降伏式之地」の記念碑

拝殿の左にある建物が社務所になっていて、御朱印はそこでいただけます。

亀田八幡宮の社務所

ちなみに、箱館戦争は戊辰戦争の中の戦いの一つであり、戊辰戦争最後の戦いです。

箱館戦争をもって戊辰戦争が終結したということになります。

戊辰戦争については、五稜郭に関する以下の記事の中の「五稜郭の歴史」で紹介していますので、あわせてご覧いただければと思います。

まとめ

亀田八幡宮の情報を紹介しました。

普通の住宅地にあって、地元民にも親しみのある神社です。

市電が通っていないエリアなので、若干アクセスが不便な面はありますが、歴史的にもとても重要な場所となっています。

街中にあっても自然を感じられて、心も落ち着きパワーももらえる場所なのでおすすめですよ!

スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました